「きみが夕方の四時に来るなら、ぼくは三時から幸せな気分になりだすよ」
フランスの作家、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の一節に出てくるキツネの台詞を自分は時々、楽器ケースを開けて楽器を手に取る瞬間の高揚に似たようなものに重ねてしまう。
しかし、その逆もまた然りだ。もし楽器が「入院」のためにいなくなるのなら、自分はその数週間前から、すでにその欠落を予感して、落ち着かない時間を過ごすことになる。
自分はいくつかの楽器を持っているのだが、メインで使っている楽器と、そのメインの楽器が万一何かあった時のためにとスペアの楽器も数本持っている。
メインの楽器もスペアの楽器も全く傾向の異なる楽器。
仕事ではいつも半々くらいに吹き分けていて、定期的に調整のためにいつもお世話になっている楽器店に持っていく。
スペアの楽器はいわゆるヴィンテージと呼ばれる楽器なのだが、これが少々維持に手がかかる楽器で、というのは最近のフルートのパッドは性能の良いものが多くパッドの状態が大きく変わることは少ないのだが、ヴィンテージのほうは昔ながらのフェルトパッドなので、(フェルトならではの感触も良いから迎え入れた楽器なのだが)室温や湿度によってかなり状態が変わってしまう。
特に初夏の梅雨の湿度が上がる時期や冬のカサカサに乾燥する時期などパッドの状態が動いて変化してしまうことが多い。よってその都度こまめな調整が必要になる。
先日も楽器の状態が芳しくないので、いつものように予約を入れて楽器店にもっていき状態を見てもらうことにした。
お世話になっているリペアの方に楽器を手渡し、いつもは一度お店のバックヤードで楽器の状態を見て頂くのだが、その日に限ってなかなかバックヤードからリペアの方が戻って来ないのでどうしたかものかと思っていた。
少し心配していると数分後、リペアの方が険しい表情でバックヤードから戻ってきた。
席に着くなり、「重傷ですよ!重傷!キーポストの台座のところにリーク(漏れ)があります」と衝撃の宣告。
「リーク??」
詳しく伺うとキーポストの台座と管体の間の溶接が経年劣化で薄く剥がれしまい、管体と台座の間に隙間ができているという。そしてこのまま楽器を吹き続ければ場合によってはキーポストもろとも倒れてしまうかもしれないと言われる!!
おまけにパッドも数年前に新しく交換したはずなのだが、何故か収縮してしまって状態が良くないらしいので、全てパッド交換も勧められた。
「…………。」
そういえば、前回調整をお願いした後、程なくして楽器は何故かまたすぐに不調状態に陥っていた。
結局、リペアの方と相談して根本的解決としてオーバーホールを勧められたので、お願いすることにした。
状態としては、かなり大規模なリペアになるのと、オーバーホールは今混んでいて順番待ちになっているので、すぐに予約をとったとしても全ての作業が仕上がるのは来年の連休前あたりだという。
(1年後か…………。)
だとしても、そのまま楽器を手元に置いておいてもポストがいつ倒れてもおかしくない状態の楽器を吹くわけにはいかないし、逆に万一ポスト部分まで倒れてしまうと余計リペアに手間がかかるだろうということで、結局オーバーホールは1年先だが、その日にそのままお願いして楽器を店に預けることにした。
いつもメインで使っている楽器は音量も出るし、音程も癖がなくて音色もよく、逆に楽器に助けられるところも多い。
一方でそのヴィンテージの楽器は、メインで使っている楽器と違ってかなり吹きこなすにはコツがいる楽器である。
まず、こちらがきちんとアプローチして息を整えて流さないと機嫌よく鳴ってくれない。
でもこちらのコンディションを整えて吹いてあければ暖かく柔らい音色で鳴ってくれる。
つまりヴィンテージのほうはメインの楽器ほど音量が出る訳でもないし、音程もこちらがしっかりアプローチして吹かないといけないところもあるが、全体的にパワー重視傾向の今の楽器と違って、吹き方がぴったりとはまった時の音色は、今の楽器には無いヨーロピアンな響きを持っている。
楽器のコンディション維持もさることながら、演奏にも手がかかる楽器だけど、逆にいうと自分の身体のもっていき方や、音程のとり方など楽器の正しい吹き方を教えてくれる部分も魅力なのだ。
調整を出しに行ったつもりが結局入院、オーバーホールになってまさかの1年近くのお別れになってしまうとは。
手元に残ったのは楽器の預かり書と見積書の2枚の書類だけ。
スペアの楽器といえども、いざ手元にその楽器がなくなると、音程がとりにくい、楽器が鳴らない、手がかかる!とやきもきしながらいつも吹いていたその楽器のことが、今こうやって書いていてもその良さと共に何だか無性に気になりだす。
お店に楽器を預けてしまったので、空になり軽くなったバックを背負いながら楽器の預り書を手に、1年後、また本来のポテンシャルを纏って帰ってきてくれると思うその楽器のことを帰り路にずっと思い返していた。
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